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☆       中堅ハチ公         ☆

1 :石原 ◆NnJYjkBPPk :2009/04/24(金) 02:09:09

  や、や、野球選手で例えると
         元木なんだな

     (・ω・)





2 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/24(金) 06:38:03
>>1
いい年こいて、また糞スレ立ててんじゃねーよ、おっさん!

3 :国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2009/04/24(金) 08:24:58
また偽石原スレか。

4 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 07:39:20
■■ニーダーザクセン政変(1200年7月7日)■■

オノレ・ド・バルザック公の崩御によって公主家は断絶した。名門クラウス家の
出でニーダーザクセン公爵を継いだクラウス・ランドルフであったが、議会の
旧バルザック派および政治的影響力を持つ大資産家の取り込みに失敗し領内を
十分に掌握することができなかった。

クラウス・ランドルフが他界し子のペイトン・ランドルフが兄弟との泥沼の争い
の末に強引に後継者となるとランドルフ家の名声は地に堕ちに大幅に弱体化した。

旧バルザック派の有力者であるヘンリー・ローレンスはランドルフ家を追放し
オノレ・ド・バルザックの従兄でありヴェストファーレン国、ハイデ太守である
ヤークト・バルザックを公主に迎え、議会を掌握しよう企てた。

ヘンリーは同志を集め政変によって議会を掌握することを計画し、ヤークトに
密使を送りザクセン入りを要請した。

ヤークトはこの要請を承諾。ヘンリーのクーデター計画の成否にかかわらず
ランドルフ派と一戦交えることができる戦力を整えザクセン入りに備えた。

7月5日にヤークトの嫡子ヨハンおよび寵臣ルーシー・ウェールズの先発隊が
ザクセン国境に迫った。すでにバルザック派に買収されていた国境警備隊は
これを阻止するどころか部隊に加わるありさまであった。

この事実を知ったペイトンはバルザック派に譲歩を示したがすでに手遅れだった。
さらにハイデ軍を迎え撃つべく軍に召集をかけたがザクセン軍内部対する不服従が
広がり、彼らはハイデ軍と戦おうとはしなかった。

ペイトンは忠誠を誓う直轄軍のみをつれてランドルフ家の基盤である南部アルスター
へ向かい軍の編成を急いだ。

5 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 13:45:05
一方、首府ハノーファでは権限をめぐってルーシーとヘンリーの確執が始まる。
特にルーシーによるヘンリー派の支持基盤である地主、資産家の切り崩しおよび
懐柔が始まると対立は決定的となった。

占領軍と議会ヘンリー派との不和を知ったペイトン軍は直ちにハノーファへ向かう。
ペイトン軍とハイデ軍はドニエプル側で激突するが、兵員数、装備、経験に勝る
ハイデ軍が一蹴する。
ただしハイデ軍は追撃を行なわなかったためペイトン軍の損失はわずかであった。

ルーシーは極めて寛大な条件でペイトン派を懐柔。
7月27日。土地、財産はほぼすべて保障されることを知るとペイトンはあっさり和睦した。
1200年8月3日。ヤークトの戴冠式が行なわれると共にヘンリーは宰相に任ぜられる。
しかしたった2ヵ月後には地位をルーシーに奪われることとなった。

ルーシーは軍と治安部隊の分離、法治主義の徹底、私有財産の保護などを行い体制の
安定化に努めたが、子飼いの者を治安部隊、諜報機関に集中的に配属したため対立者
からは監視社会の専制者として嫌われた。
ヘンリー派は保守党、ルーシー・ペイトン派は中央党の基盤となった。また左派は独自に
人民党を興して議会を三分していくこととなるが、その後も長らくルーシー専権時代は
続くこととなった。


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